2011/09
オランダ人土木技術者 デ・レイケ君川 治


[日本の近代化と外国人 シリーズ 9]


 治水の恩人、オランダ人土木技術者ヨハネス・デ・レイケは水利工学の知識を活用しながら、広い視野で河川流域を観察して工事基本計画を策定し、完成の手柄を日本人技術者に委ね、自ら主張することが無かった。この謙虚なオランダ人技術者は淀川資料館、木曽三川公園や船頭平河川公園だけでなく、冨山の常願寺川の砂防博物館、徳島の吉野川支流・大谷川のデ・レイケ公園など多くの場所で顕彰されている。


(注1)粗朶沈床工法
「粗朶(そだ)」とは栗・楢・樫・クヌギなどの木の枝のこと。
「粗朶沈床」(写真下)とは、木の枝を束ね、格子状に組んでつくったマットレスのような工作物。それらを川の両岸に沈めて、流れないように石を上に乗せて川幅をせまくするのが「粗朶沈床工法」。(淀川資料館の説明より)


 我が国は長い鎖国の間も蘭学者たちがオランダから医学や洋学の情報を入手し、蒸気機関や電信機についても知っていた。
 維新政府が先ず手を付けたのが交通と通信であった。電信は薩摩の寺島宗則と佐賀の石丸安世が先鞭をつけ、鉄道は佐賀の大隈重信、長州の伊藤博文・井上勝が推進者だ。しかし、交通網整備については鉄道派と船舶派に分かれ、薩摩の実力者大久保利通は船舶派であった。我が国は島国で昔から海上交通が盛んであり、先ず港湾を整備し、河川の改修と運河を開削する政策を推進した。

オランダの土木技術者たち
 お雇い外国人はイギリスが圧倒的に多い中で、土木技術者はオランダの技術者が招聘された。鉄道はイギリス、造船はフランス、医学はドイツ、土木はオランダと政府はその実力を調べながら対応していたといえよう。オランダは北海の海面上昇と地盤沈下の双方が重なって、国土の3分の1が海面以下となり、築堤工事や堤防改修が国の基幹事業であり、内務省土木局は技術者の憧れの職場であった。
 オランダからやってきた土木技術者ファン・ドールン(1837−1906)、エッシャー(1843−1939)、ムルデル(1848−1901)らは王立アカデミーでレブレット教授に土木工学や水利学を学んだ。王立アカデミーは後のデルフト工科大学である。
 多くのオランダ人土木技術者たちの中で、注目するのは港湾整備や河川改修で多くの実績を残し、滞日30年の長きに亘って我が国の河川改修を指導したデ・レイケ(1942−1913)である。デ・レイケは築堤職人の子で学歴はないが、彼もレブレットに学んでいる。
 デ・レイケはオランダ南西部の東西15km、南北5kmの小さな島、北ベーフェラント島で生まれた。父は築堤職人で、先祖より5代に亘って堤防工事に従事する家庭で育ち、デ・レイケも父の家業を手伝いながら育った。偶々堤防工事の現場監督に来ていた政府の土木局技師レブレットは利発なデ・レイケを可愛がって数学や力学、更には水利学を教えた。その後、レブレットは王立アカデミーの水利学教授となる。デ・レイケは長じて築堤職人となり、北海閘門工事ではファン・ドールンの元で現場工事を担当した。このように来日した技術者たちは恩師レブレットを中心に見えない糸で繋がっていた。

淀川改修工事
 淀川はその昔、京の都と商都大坂を結ぶ交通の動脈であったが、川底に土砂が堆積し、度々氾濫して洪水を引き起こしていた。明治6年に来日したデ・レイケはエッシャーと共に淀川や上流の宇治川、桂川、木津川などを調査して、上流の山地が荒廃しており、植林と砂防ダム建設の必要性を強調し、川底に堆積した土砂は浚渫せず、川の流水の力で流す淀川改修計画書を作成して政府に提出した。デ・レイケとオランダから来た工事担当者たちは、粗朶沈床工法(注1)により淀川の流れを蛇行させて流れを緩やかにし、河川中央部の水流を早くして、水深を1.5mまでに改善し、船の通行ができるようにした。この様子は枚方の淀川資料館に展示説明されている。
 京都府宇治市の南、木津川上流の不動川を遡行すると、不動川砂防歴史公園がある。ここにはデ・レイケが作った砂防ダムが何段も並んでおり、砂防の恩人デ・レイケの顕彰碑と銅像が有る。付近の山々は緑の林であるが、明治の初めは材木や炭焼きの為に伐採されて禿山であった。この山にネットによる土留めと植林を設計したのがエッシャーで、施工工事をしたのがデ・レイケだった。
 明治30年から日本人土木技術者沖野忠雄により新淀川の開削工事が始まり、大阪港が整備され、旧淀川との間は毛馬閘門が設けられた。新淀川総合開発は明治43年に完成するが、基本設計はデ・レイケによるものである。

木曽三川改修工事
 中部地方には木曽川、長良川、揖斐川の3つの大きな川があり、江戸時代から氾濫を繰り返す暴れ川として知られていた。河口付近ではこの三川が小さな支流を介して複雑に繋がり伊勢湾に注いでいる。上流から流れてくる土砂で川底は高くなって天井川となり、住民は輪中といわれる高い堤防に囲まれた中の土地で生活を営んでいた。幕府は木曽三川の改修工事を薩摩藩に命じた。宝暦の木曽川工事として有名で、幕府の外様大名いじめの様子は杉本苑子の「弧愁の岸」に見事に描かれている。
 明治になって、木曽川・長良川・揖斐川流域では相変わらず河川の氾濫が治まらず、愛知・岐阜・三重の首長から政府の内務省にオランダ人技術者の調査派遣が要請された。デ・レイケが最初に木曽川を調査したのは明治10年で、その後も三川流域を何回も調査している。明治14年には約1ヶ月かけて詳しい調査をした。木曽三川に囲まれた輪中が、故郷オランダの北海に浮かぶ堤防に囲まれた島々とそっくりだと感じたという。彼は複雑な流れをスムーズな流れに変更し、木曽川・長良川・揖斐川を分離する改修計画書を明治19年に作成して政府に提出した。この改修工事は明治20年に内務省工事として日本人技術者の手でスタートし、明治33年(1900年)に竣工した。
 デ・レイケは淀川、木曽三川のほか、筑後川、九頭竜川、常願寺川などの改修計画を依頼され、改修の基本計画を策定している。しかし、古市公威(フランス留学)、沖野忠雄(同)、石黒五十二(イギリス留学)、田部朔朗(工部大学校)などの日本人技術者も育ってきて、政府は日本人が独力で改修工事を成し遂げたと我が国の技術力向上をPRする意図があった。
 現在は治水の恩人として、デ・レイケの顕彰碑や銅像が各地に建てられている。その一つ、木曽川と長良川を分離した船頭平河川公園に行ってみた。この公園の広場に立派なデ・レイケの銅像がある。
 船頭平閘門は明治35年完成した我が国最初の閘門で、パナマ運河より早い。この閘門は今も現役で使用され、国の重要文化財である。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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